伊豆半島ジオパークミュージアム「ジオリア」(静岡県伊豆市)で開催中の巡回展との連動企画として1月29日、オンライン講演会「開国のロストシティ~大江戸・倫敦(ロンドン)・紐育(ニューヨーク)・巴里(パリ)を日本に造った伊豆石産業史」が開催された。
講演会は3月14日までジオリアで開催中の「『第4回 伊豆石ギャラリー巡回展』~伊豆半島から日本を支えた伊豆石文化~」の理解を深めるために開き、当日は60人以上が「伊豆石文化」への理解を深めた。伊豆石文化探究会の剣持佳季さんが講師として登壇し、伊豆の国のガイドの鈴木麻佑さんが聞き手を務めた。
前半は「伊豆石」の定義に立ち戻り、「伊豆石」の言葉は、名称も見た目も加工性も地質学的分類もさまざまな「伊豆半島およびその周辺(相州西部)産の石材」を慣習的に総称したものであると解説した。
中盤は産地に注目し、江戸の大火後の復興材としての需要や、幕末や明治期にも、堆積層が多くを占める首都圏では石材の調達が困難で伊豆石が重宝されたことを説明。石切場の歴史資料分析から、海運が盛んだった明治中期までは下田など伊豆半島の南側や沿岸部が、その後は陸上交通の発達とともに沼津など北側で産業が発達してきたことが明かされた。
後半は、「伊豆石」の用途を三菱一号館(1894年)、日本銀行本店(1896年)三井倶楽部(1913年)などの具体例を交えて紹介。明治中期まで首都圏での伊豆石のシェア率は7~8割を占め、伊豆石を使った横浜外国人居留地や東京銀座煉瓦街の街並みは、現存する伊豆下田の旧市街との部材的・景観的類似性が強いことを指摘。下田の街並みが日本近代都市のプロトタイプであるとする説に触れた。
最後に、剣持さんは「伊豆石が発展させた京浜の近代都市の歴史は、石材枯渇と他産地への産業移行を招いた点で、西洋式の大量生産・消費の象徴であり、一方、伊豆石が古くから庭石などに使われてきた点は、人と自然の共生の象徴でもある」と伊豆石文化の二面性について考察した。
終了後はオンライン会議ツールのチャット機能で質疑応答も行われた。採石場跡地の有効活用が進まない点や、歴史的価値に反して伊豆石の建物が壊されていく点も話題となり、剣持さんは「採石場や建築物は民間所有のものが多く、有効活用には所有者の協力が不可欠」「石材バンクなど貴重な石材を再利用できる取り組みも必要」などと回答した。