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下田で開港170周年記念特別講演会 歴史作家・河合敦さん登壇

特別講演「開港から170年『なぜ下田が選ばれたのか』」会場の様子

特別講演「開港から170年『なぜ下田が選ばれたのか』」会場の様子

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 今年開港170周年を迎える下田市が3月16日、特別講演「開港から170年『なぜ下田が選ばれたのか』」を下田市民文化会館(下田市四丁目)で開催した。約80人の市民が参加した。

講演する河合敦さん

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 「下田開港170周年記念事業」の一環で開いた同講演会。講師に「世界一受けたい授業」をはじめ多くのテレビ番組に出演している、歴史作家で多摩大学客員教授の河合敦さんを迎え、下田が開港の地に選ばれた経緯について講演を行った。

 下田の開港について、河合さんは「もともとペリーは浦賀を開港するよう要求したが、中国へ向かう貿易船や捕鯨船の寄港のためならば外洋に面した下田の方がいい、と幕府が積極的に下田を勧めた」と説明。幕府にとって、江戸の中心に近い浦賀よりも、江戸から遠い下田の方が安心という思惑もあったという。

 さらに、幕府が下田を勧める理由の一つとして、下田に近い韮山(現伊豆の国市)の代官・江川英龍(ひでたつ)の存在を挙げた。黒船来航以前から下田に出没する外国船を追い返したり、下田に台場(大砲を設置するために海を埋め立てて造る人工島)を造るよう幕府に提案したりと、活躍めざましい英龍の名は広く知られ、「すごい人がいるから彼に任せてみよう、ということになった」と解説した。

 その他、初代駐日総領事官であるタウンゼント・ハリスが日米修好通商条約を締結するまでに歩んだ苦難の道のりや、吉田松陰とその弟子・金子重輔(しげのすけ)のペリー艦隊密航失敗後など、下田に関係する偉人の話題を提供。「条約調印の際、椅子に座るペリーと同じ目線で話せるよう、役人は畳を積み上げて座った」「足りない物資のみを補給するための場所である『欠乏所』では、商人が土産物を売っていた」などのエピソードも紹介した。

 河合さんは「1859年の横浜開港に伴って閉鎖されるまでの約6年間、下田は国際的な港として活躍していた」と話し、下田が日本で最初の開港地だったことから「下田の人々が日本を代表して、初めて世界に日本人とはどういうものかを知らしめた。これはとても意義があること」と締めくくった。

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